武田勝頼が最期にむかった地 大菩薩峠天目山栖雲寺(山梨県)
大菩薩峠とは
大菩薩峠の名前の由来は、山頂にまつられていた妙見大菩薩から取られたといわれているとのことで、そこにある天目山栖雲寺は武田信玄亡き後に、武田勝頼が天目山の戦いで織田信長に敗れ、最期に目指した場所で、ただ、たどり着かずに麓の景徳院にて自害したとされています。栖雲寺は上杉禅秀の乱に絡み自害した甲斐源氏13代武田信満の菩提寺で、その息子の信元が甲斐守護となり、武田家が再興した縁のある場所でもあり、勝頼が目指したものと思われます。ただ平良文が7騎のみとなった後に妙見寺にて妙見菩薩の加護を受け再起したとの話と重なる不思議な場所となっています。
栖雲寺寺宝「武田信玄鉄製軍配」
戦国時代最強の武将とも言われる武田信玄が使っていたとされる鉄製の軍配が栖雲寺の宝物殿にあり、上杉謙信の刀を受け止めたものと伝わり、7番目の破軍星も含めて北斗七星が描かれており、武田信玄が妙見信仰を持っていたことがうかがえ、この北斗七星により軍配は信玄のものとされているとのことです。勝頼が最期に向かった大菩薩峠の栖雲寺に北斗七星が描かれた軍配が奉納されているというのも何かの縁があるように思います。
他にも栖雲寺には武田勝頼が自害した際に最期まで持っていたと伝わる鏡が奉納されており、武田家とゆかりの深い場所となっています。
鎮守 摩利支天
栖雲寺には摩利支天が鎮座しており、摩利支天は陽炎を神格化した神で、猪を使いとして猪突猛進、ひるむことなく敵陣に突っ込んでいき、さらには敵から陽炎の如く身を隠し、切られることなく勝利をもたらしてくれるとして、多くの武将が戦いの神様として信仰したとのことで、武田家出陣の際には天目山で必勝祈願の祈祷がされたとのことです。
現在の天目山栖雲寺
織田信長によって全焼させられた伽藍は、徳川家康の寺領寄進を受けて1592年に再建されたとのことで、現在は禅庭に繰り出して岩坐禅が行える聖地になっており、県指定史跡の坐禅古道場になっています(お寺の方に親切にご案内いただきました。ありがとうございました)。