妙見信仰と桓武平氏でつながる現代まで

妙見菩薩は北極星を仏格化したもので、起源は古代中国大陸の遊牧民が北極星やその周りを巡る北斗七星を宇宙の中心の神と考えたため、と言われており、日本には遊牧系帰化人などによって伝えられたとされています。また、北斗七星のうち破軍星があることから軍神として武士の軍神としても信仰を集めるようになり、関東では桓武平氏の平良文にまつわるものから現代に多く受け継がれています。

関東で広がる妙見信仰の始まり(西多摩郡 妙見宮七星殿)

西多摩郡「妙見宮七星殿」は天武天皇に関東開拓の勅命を受けた百済の豪族が685年に大和斑鳩法輪寺の妙見菩薩を勧請し祀ったことが起源といわれ、一度焼失したものの、後に百済様式で復元され、日の出町の地を一望できる北の妙見山山頂に鎮座しています。曹洞宗瑠璃山東光院の境内にあり、毎年5月3日の例大祭には韓国舞踊が奉納されるとのことです。妙見信仰はここから広がったといわれ、形に残る貴重なものとなっています。

日本三妙見(稲城 妙見寺)で見られる軍神としての妙見菩薩

稲城市「妙見寺」は秩父の秩父神社、山口の興隆寺妙見社とあわせて日本三妙見ともいわれ、淳仁天皇時(760)に、新羅の九州侵攻の伏敵祈願をしたところ妙見菩薩が青龍に乗って現れ国難が消滅したため、北辰妙見尊を祀る妙見宮が建立され、鳥羽天皇時に妙見寺が別当とされたとのことです。毎年8月7日に北斗七星になぞらえた7名が、萱場から萱を刈り出し大蛇の形に撚り上げ、妙見宮の階段に沿って置き、頭を山下の二十三夜塔の前に、尾は山上の社殿を取り巻くように安置する「蛇より行事」が行われます。

妙見宮 鳥居
妙見宮 本殿

平良文からつながる妙見信仰(群馬県高崎市 妙見寺)

群馬県高崎市「妙見寺」は平良文が平将門と共に戦った染谷川(931)で苦戦し、七騎のみとなり不思議な声に誘われ、たどり着いたとされる寺院で、北斗七星の化身・妙見菩薩が祀られ、良文が妙見菩薩に選ばれたとして七星剣を僧に渡され、良文の体には月と星の印が浮き出、良文・将門軍は勝利を重ねたいわれています。714年頃に上野国大掾藤原忠明の開基により創建されたと伝えられ、花園星神記では藤原忠明がこの寺へ来て宿泊し、夜半目覚めてあたりを見渡すと、乾の方角に光明が立ち上がり、不思議に思って侍臣を遣わせ調べると、冷水町の小祝池からとわかり、水底を探らせたところ、目が赤く首の白い珍しい亀を得で、これを時の帝に献じたところ喜ばれ、元号が霊亀に改められたとの逸話があります。すぐそばには750年頃に完成したと言われる上野国分寺の跡があります。

秩父 桓武平氏秩父氏の妙見信仰(埼玉県 秩父神社)

埼玉県「秩父神社」は天下春命の子孫の知知夫彦命が秩父地方開拓の祖神として祀られ、平良文を祖とする桓武平氏秩父氏の妙見信仰と習合し秩父妙見宮ともなり、妙見菩薩を信仰する徳川家康によって寄進された本殿北側の「北辰の梟」は体は本殿、頭は北極星の北側を向き、梟は知恵の神で学業成就のご利益と言われています。 毎年12月3日には「秩父夜祭」が行われ、京都の祇園祭、飛騨高山祭と共に日本三大曳山祭のひとつに数えられ、秩父神社にまつる妙見菩薩は女神、武甲山に棲む神は男神で、互いに相思相愛の仲であるものの、武甲山の神の正妻が近くの諏訪神社の神のため、夜祭の晩だけ許しを得て、年に一度の逢引きすることに因む祭との逸話があります。

渋谷 渋谷氏と妙見信仰(金王八幡宮)

金王丸御影堂

渋谷「金王八幡宮」は桓武平氏秩父氏の流れを汲む河崎基家が八幡太郎源義家と共に戦い、この地を与えられ、基家が拝持する妙見山の月旗をもって八幡宮が勧請されたとのことです。基家の父平武基が長元の乱で功を立て、軍用八旒の旗を賜り、その内の日月二旒を秩父の妙見山(武甲山)に納め八幡宮と崇めたものに因ります。

基家の子の重家の代となり禁裏の賊を退治したことにより堀河天皇より渋谷の姓を賜り、この八幡宮を中心に館を構え居城とし、渋谷氏は代々当八幡宮を氏族の鎮守と崇めています。これが渋谷の発祥といわれ、渋谷八幡宮との名前だったものが、渋谷金王丸常光の名声により、金王八幡宮と名を変えています。

金王丸は重家には子がなくこの八幡宮に祈願を続けたところ、金剛夜叉明王が妻の胎内に宿る霊夢を見てこの男子を授かり、明王の上下二文字を戴き「金王丸」と名付けたとのことです。源義朝に従って保元の乱で大功を立て、その名を轟かせ、続く平治の乱では義朝が敗れ討たれたことを京で義朝の妻常磐御前に報告し、渋谷で剃髪し、土佐坊昌俊と称して義朝の御霊を弔ったとのことです。金王丸は、頼朝との交わりも深く、頼朝が挙兵の際はこの八幡宮に参籠して平家追討の祈願をしたとの話もあります。頼朝は、金王丸の忠節を偲び、鎌倉の館よりこの地に桜樹を移植し「金王桜」と名付け、金王丸御影堂には、保元の乱出陣の際、金王丸が自分の姿を彫刻し母に残した木像と所持した「毒蛇長太刀」が祀られ、毎年3月最終土曜日の祭礼時に特別開扉されるとのことです。

千葉 千葉氏と妙見信仰(千葉神社・七天王塚)

平良文の流れを汲む千葉氏は現千葉市「千葉神社」で一族の守護神として北辰妙見尊星王を祀り、千葉氏の祖平忠常の子覚算によって伽藍が整備されたと伝えられ、北斗山金剛授寺として1000年に中興開山し、1860年に千葉神社へと改称されたとのことです。千葉家中興の祖といわれる千葉常胤は源頼朝に一族300騎を率いて下総国府に赴き参陣したと伝えられ、その際に源氏の子として育ててきた頼隆を伴って参陣し、頼朝から感謝を受け、頼朝も当社に参詣し、自筆の願文・太刀・武具などを奉納して平家打倒を願ったとのことです。

また、末裔の一人幕末三剣士の千葉周作は坂本龍馬も学んだ北辰一刀流の剣術を創始し、武蔵国などでの他流試合で名を上げたとのことです。

千葉常胤が本拠とした亥鼻地区では「七天王塚」と呼ばれる北斗七星の形に配置された塚があり、千葉氏7人の兄弟の墓、平将門の7人の影武者の墓等の説があるそうです。

七天王塚①
七天王塚②
七天王塚③
七天王塚④
七天王塚⑤
七天王塚⑥
七天王塚⑦

江戸 徳川家康・天海と妙見信仰(群馬 覚成寺)

覚成寺本殿
天海大僧正御座石

徳川家康が遺言として「遺骨は久能山に葬り、分骨を日光山に東照権現として祭る様に」と残したことに基づき、天海僧正が物乞いに身を隠し、裏街道で日光を目指す中で、この寺(現群馬みどり市「覚成寺」)の前の石で休息したところ、人挌・風格が乞食僧にあらずと山海の珍味をもって寺で接待したところ天海僧正が感激し、身の素性を打ち明け、遺骨と共に奉持する家康の守本尊を寺宝にと安置した「北辰妙見大菩薩」が祀られており、「天海大僧正御座石」も寺宝とされています。

みどり市には土器を使っていた縄文時代の人々が日本の最初の住人だという常識を覆し、旧石器時代段階で人々が生活していたことをはじめて明らかにした東京府(武蔵国)荏原郡(現太田区)生まれの相沢忠洋氏が発掘した岩宿遺跡があります。

近代 東郷平八郎が祀られる「東郷神社」

東郷神社

渋谷「東郷神社」は日露戦争を勝利に導いた一人の東郷平八郎が祀られ、出身の薩摩東郷氏の祖は桓武平氏の流れを汲む渋谷氏で、佐々木四兄弟の父秀義を匿った渋谷重国の子光重が宝治合戦の恩賞として薩摩国を与えられ、子の実重が薩摩国で東郷を名乗ったことから東郷氏の系譜が続いています。昭和9年に亡くなられた後にその一生を後世に伝えて顕彰するため、全国からの要望、寄付によって神社を創建されています。

近代 乃木希典が祀られる「乃木神社」

赤坂「乃木神社」は日露戦争を勝利に導いた一人の乃木希典が祀られ、その祖先は渋谷氏が父の秀義を匿った佐々木四兄弟の高綱といわれ、高綱は長門・備前の守護となり、次男の光綱が出雲国の野木に住み、野木氏の祖になったとのことで、江戸時代の長門長府藩の医師乃木傳庵が野木氏の末裔と称し、一族から乃木希典が出ています。日露戦争で活躍した海軍大将東郷平八郎と陸軍大将乃木希典が過去から繋がり、妙見信仰による縁もあったのではないかと想像します。

現代 よみうりランド「妙見菩薩」

稲城のよみうりランドの「聖なる森」にある妙見菩薩は鎌倉後期の作で、伊勢神宮外宮の神職度会氏の祖先が川に落ち亡くなり、遺体を探したところ妙見菩薩の木像を見つけ伊勢に妙見堂として安置したといわれ、その後正力松太郎氏の支援もあり、この地に移転しているとのことで、重要文化財に指定され、美豆良と呼ばれる日本古来の髪型や、刀を意味する左手が特徴になっています。関東で妙見菩薩の拝観ができる貴重な場所になりますが、様々な歴史を経て稲城に妙見菩薩が祀られているというのも不思議な縁のように思います。


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