江戸幕府公認吉原遊廓をつくった男、庄司甚内

庄司甚内の戦略

鈴ヶ森刑場は現在の東京都品川区南大井にかつて存在した刑場で、東海道沿いで、江戸の南の入口に設置されており、江戸に入る人たちに警告を与える意味でこの場所に設置されたと言われ、江戸時代の反乱事件慶安の変の首謀者のひとり丸橋忠弥が磔刑となり、恋人に会いたい一心で放火事件を起こした八百屋お七が火あぶりにされたとの逸話があります。

写真左:丸橋忠弥磔台 右:八百屋お七火炎台

品川区南大井 磐井神社

そんな江戸の南の入り口という場所に目を付けた男が庄司甚内でした。

徳川家康は関ヶ原の戦いに向かうために、江戸城を出て東海道を西上し、この場所磐井神社のあたりまで来た時、社の前の茶見世で朱色の前掛けで赤手拭を髪に掛けた、若い女性が七、八人、家康に従って来た武士達に湯茶のサービスをしており、家康がその女性達の中に若い男が袴をつけて、かしこまっているのを見つけ、何をしているのかと供奉の者に尋ねさせると、その若者はうやうやしく頭を下げ、「自分は庄司甚内と申し、柳町(現在の千代田区丸の内周辺)に住む遊女の長でございます。この度の御出陣、御勝利は決まっております。そこで恐れながら、御門出を祝い奉ろうと、お供の方へお茶などを差し上げております。」と答えたとのことです。

「鈴ヶ森 行列之図」所蔵:足立区郷土資料館

一大遊郭を作る為には、今回の戦で勝つであろう家康に、早くから顔を売っておいた方が良いという、甚内の読みがあったと言われています。庄司甚内は小田原北条氏の武士の家の出で、忍者の風魔一族の生き残り、東海道吉原宿(現在の静岡県富士市)で旅籠を経営していたとの説もあります。その茶見世の表には、紺色の暖簾を下げ、その暖簾の端に鈴をぶら下げておき、お客が暖簾をまくると、鈴が鳴る様にしておいたところ、風流だと言う事で、どんどんお客が来る様になり、これが「鈴ヶ森」と言う地名の起こりだとの説もあります。

この後、庄司甚内から来た吉原設置の願書を見て、家康は「この庄司甚右衛門とは、甚内と申した君(遊女)のてて(親分)か。 」と言ったとのことで覚えていたそうです。また、公認の遊廓を一箇所に設置することを認めさせる理由として、3つの悪行が防げるとして、使い込みや横領をさせないために一日一夜以上を許さない、養女にして遊女奉公に出すことを防ぐために悪質な見世を取り締まる、浪人・悪党・失踪者がいた場合届け出る、ことを挙げたとのことです。

江戸幕府公認 吉原遊廓の誕生

そして現在の人形町の一帯に設置が認められ、葭や茅が生い茂る場所だったことから「葭原」、縁起の良い「吉」を使って「吉原」にしたとのことです。その後、人が多く住むようになり、治安の悪化を恐れた幕府が江戸の郊外の現在の地に移転させています。

写真:日本橋人形町にある末廣神社

吉原の氏神となり、社殿修復の際に末廣扇が見つかったことに由来し、現在の名前になったとのこと。福徳を授ける毘沙門天が祀られており、勝負運を授かるとのことで参拝する人が絶えないとのこと。

吉原の中央を貫く「仲の町」はメインストリートで、春には植木職人が桜の木を仲の町に運び込み桜並木を演出したとのことです。また吉原には豪遊伝説も残り、紀伊國屋文左衛門(紀文)と奈良屋茂左衛門(奈良茂)が代表で、「大尽遊び」とも呼ばれ、紀文は小粒金を升に入れて豆まきの要領でばら撒いたり、奈良茂は吉原にそば二箱を持っていくためだけに吉原近辺のそばを全て買い占めたとのことです。

「東都名所」「吉原仲之町夜桜」
所蔵:Nationaal Museum van Wereldculturen
(Rijksmuseum Volkenkunde, Leiden)

庄司甚内が眠る深川「雲光院」

深川 雲光院

そんな逸話の残る吉原遊廓の創始者庄司甚内は江戸幕府のゆかり寺院が多くある深川の雲光院に眠ります。最初に創建されたのは、現在の中央区馬喰町付近でしたが、明暦の大火で焼失し、神田岩井町に移転した後、現在の深川に移転されたとのことです。雲光院は家康の側室だった阿茶局の菩提寺で法号がそのまま寺院の名前となっています。阿茶局は大坂冬の陣では、淀君の妹で京極高次の妻常高院と交渉し、大坂城に入り和睦の使者となって淀君・秀頼の誓書をとるなど家康が最も信頼したと言える側室です。そんな雲光院に庄司甚内が眠り、阿茶局よりも庄司甚内は後に亡くなっていることから、本人の遺志もあったのではないかと思われます。

雲光院内 庄司甚内墓



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