パワースポット 日本人の信仰心について

日本人は初詣を神社、お葬式をお寺、クリスマスをお祝いする等、日本人は何を信仰しているのかわからない、信仰心がないのでは、、と言われることも多いと思いますが、神道をベースに良いものを取り込んでいく、というものがあり、それは過去から日本人に根付いたものではないでしょうか?

神道は自然の中で神々の働きを感じ、あらゆるものを生みなす生命力も神々の働きとして捉え、国家や郷土のために尽くした偉人や、子孫の行く末を見守る祖先の御霊も、神として祀られて来ました(神社本庁HPより)。また海の神、山の神、風の神のような自然物や自然現象を司る神々、衣食住や生業を司る神々、国土開拓の神々など、その数の多さから八百万の神々といわれ、この点からもあらゆるものを神として捉え、畏敬の念を持って対象としていくことが日本では長く続いてきたと考えられます。

その象徴の一つが七福神であり、室町時代に京都が発祥の地とされ、「都七福神」の巡拝は古くから⾏われているものとされています(都七福神事務局HPより)。七福神は、ゑびす神、⼤⿊天、毘沙⾨天、弁財天、福禄寿神、寿⽼神、布袋尊の七神になります。ゑびす神だけが⽇本古来の神様で、⼤⿊天、毘沙⾨天、弁財天はインドの神様、福禄寿神、⽼寿神、布袋尊は中国の神様となっており、日本の神々の中に海外の神々を取り込んで信仰の対象としてきた様子がうかがえます。

ゑびす神[商売繁盛、家運隆昌、交通安全の神]

繁盛·家運隆昌·旅行安全·豊漁等の守護神で庶民救済の神といわれています。 その語源は、異邦人や辺境に住む人々を意味するエミシ·エビスの語に由来するとされています。もともとエビスは漁民のあいだで信仰されはじめたと考えられており、漁村では大漁をもたらす神として、海岸や岬の祠に祀られることが多くありました。商業の神様としてのエビス信仰の中心は西宮神社で、その祭神は蛭児大神とされています。ヒルコ(蛭児)というのは、イザナギとイザナミの間に生まれた子で、身体に障害があり三歳になっても立つことができず、 葦の船に乗せて流されその後は行方不明になったものの、浜に流れついて西宮神社の祭神になったとされています。海の彼方からやってくるというイメージから次第にヒルコとエビスは同一視されるようになったと考えられています。 また、因幡の白兎の物語で知られている大国主命の子である事代主命ともされており、出雲の美保崎で魚を釣ったという伝承から、 魚と釣竿を持った姿で描かれるようになったとのことです。西宮神社は海の守護神であったと同時に、鎮座するところは重要な交易地であったことから、次第に商売の神へと変化していったようです。

大黒天[台所、福運の神]

ヒンドゥー教のシヴァ神がルーツで、打ち出の小槌を持ち笑みを浮かべる姿から福財の神ともいわれ、もともとは軍神です。 インドの死を司る恐怖の破壊神で大黒天はサンスクリット語で摩訶迦羅(マハーカーラ)。マハーは『大いなる』、カーラ『闇黒』でシヴァ神が世界を灰にする時にこの姿になるとされ、この神に祈ると必ず戦いに勝利するのでインドでは大いに信仰されたようです。その後仏教に取り入れられて三宝を守護する戦闘神となり、苦行する仏教徒には穀物を与えるとされ、食料や厨房を司る神としての性格も持つようになります。神道の神である「大国主命」(おおくにぬしのみこと)が、「大黒」と同音であることで民族的信仰と習合されて、今日の日常生活に厚く拝まれる 神として確立されたと言われ、現在は福徳を重きにみて、商売繁盛の守り神とされています。

毘沙門天[学業成就、財運の神]

インド神話のヴァイシュラヴァナがルーツで、北方の守護神、仏教を守護する神であり、毘沙門天を信仰すると十種の福を得るとされています。 前身はインド神話に登場する「クベーラ」という財宝の神様と言われており、サンスクリット語で「ヴァイシュラヴァナ」で、その音が中国語で訳されて「毘沙門」となっています。クベーラは地下に眠る財宝の守護神で、「ヴァイシュラヴァナ」という名前はサンスクリット語で「よく聞く」という意味にも捉えることができ、この「よく聞く」という意味が中国語で訳されて「多聞天」になり、これが日本へと伝わり、毘沙門天とともに「多聞天」という名前の由来とされています。菅原道真も信仰していたといわれています。

弁財天[芸能、財福、知徳の神]

ヒンドゥー教の女神サラスヴァティー(聖なる河の意味)がルーツで、七福神で唯一の女神。 水を神格化したものであり、言語や音楽の神として尊信されています。日本古来の食物神の宇賀神と結びつき、蛇身と老人の顔を持つ宇賀神を頭上におく像もあり、また日本各地の水神や、代表的な海上神の市杵嶋姫命と神仏習合して、泉、島、港湾の入り口などに、弁財天を本尊とする弁天社や弁天堂が数多く祀られています。また、他者から聞く者に智慧、長寿、富を与えるとされ、金運·財運の神ともされています。

福禄寿[延寿、健康、除炎の神]

南極星の精·泰山府君を人格化した神で、幸福·高禄·長寿の三徳をあたえられたとされ、商売繁盛·延寿·健康·除災を祈願します。道教で強く希求される三つのものが幸福と富貴と長寿で、中国では,鶴と鹿と桃を伴うことによって福·禄·寿を象徴する三体一組の神像や,こうもりと鹿と松によって福·禄·寿を具象化した一幅の絵などが作られ広く用いられています。福禄寿はもともと福星・禄星・寿星の三星をそれぞれ神格化した、三体一組の神だったものが、寿星だけを老人の姿で描き、その左右に福星を蝙蝠(「福」 fú と「蝠」 fú が中国では同音)、禄星を鹿(「禄」 lù と「鹿」 lù が同音)として描いたものなどもあり、その伝来物が日本人には二物を伴った一人の神に見えたため、日本においては福禄寿を三人ではなく一人の神格とする認識が流布したと考えられています。

寿老人[長寿、吉運の神]

道教の南極老人星で天に昇ってなったという仙人の姿です。三千年の長寿を保つ玄鹿を従え、人々の難を払う団扇を持っていることから、福財·子宝·諸病平癒·長寿の功徳ありといわれており、福禄寿と同一視されることも多いようです。

布袋尊[夫婦円満·財宝賦与の神]

中国·唐の時代に浙江省奉化県に実在した契此という高僧といわれています。大きな袋を持ち、これに食べ物や日常品を入れ、杖をたずさえ、大きな団扇を手にし、身体は低いが、腹は太鼓腹、半裸身、粗衣をまとい、常に笑顔、清貧にあまんじ、諸国を遊行し、子供と遊び、酒脱、楽天的な和尚として親しまれてきたようです。また人の吉凶、時の晴雨を予知したといわれ、布袋尊を弥勒菩薩の化身として信仰し、日本に伝来した後は清廉潔白、大気度量を人々に授ける福神として、信仰されるようになっています。

(都七福神事務局HP、実業之日本社等より作成)

「都七福神」について

七福神は室町時代の京都が発祥の地とされ、「都七福神」の巡拝は古くから⾏われているそうです。七福神の神々の⼒をもって福運を授かろうとする⺠衆の願いであり、特に新春に巡拝すると七難即滅、七福即⽣極まりなしといわれ、功徳が⼤きいとされています。

最初は⼤⿊さんとゑびすさんが「⼆福神」として盛んに祀られ、 室町時代に⼊ってから、禅と茶道の隆盛に伴い、⽵林の七賢⼈などの絵が⼈気をよび、七賢になぞらえて福神を七⼈にしようとゑびす、⼤⿊天に5⼈の神様を追加して七福神になったそうです。

商売繁盛「ゑびす神」…京都ゑびす神社

http://www.kyoto-ebisu.jp/kotu.html 

阪急河原町駅下車。徒歩10分

祭神は事代主神、大国主大神、少彦名神。

京都ゑびす神社は西宮·大阪今宮神社と並んで日本三大ゑびすと称され、起源は約800年前土御門天皇の建仁2年(1202年)に禅の祖といわれる栄西禅師が建仁寺建立にあたり、その鎮守として最初に建てられたものとです。ゑびす信仰の象徴とも言える笹は元来京都ゑびす神社独自の「御札」の形態が広まったもので、笹は縁起物の松竹梅の竹の葉で「節目正しく真直に伸び」「弾力があり折れない」「葉が落ちず常に青々と繁る」といった特徴から家運隆昌、商売繁盛の象徴となったようです。

開運招福「大黒天」…松ヶ崎大黒天(妙円寺)

http://matugasaki-daikokuten.net 

地下鉄烏丸線「松ヶ崎駅」下車。徒歩約20分

関ヶ原の合戦の後、江戸初期の元和二年(1616)本涌寺(松ヶ崎檀林:現在の涌泉寺)内に建立された本覚院日英上人の隠居所で、本覚院日英上人による開基・開創された日蓮宗のお寺。日蓮宗法華経の守護神である大黒天が日英上人にて鎮座されました。京都の子丑の方角(表鬼門)に祭祀され、京都鬼門守護の福の神とされています。昭和44年の堂宇焼失の際に大黒天は水火を免れたことから「火中出現 火伏守護の大黒さま」としても崇拝されているそうです。

七福即生「毘沙門天」…東寺

東寺 – 世界遺産 真言宗総本山 教王護国寺

真言宗総本山 東寺〔教王護国寺〕の公式サイトです。境内・歴史の紹介、特別公開のお知らせ。法要や拝観のご案内。

JR京都駅より徒歩15分

唯一残る平安京の遺構で平安遷都とともに建立された東寺は官寺(国立の寺院)で、その寺院を嵯峨天皇は、唐で新しい仏教、密教を学んで帰国した弘法大師空海に託し、日本ではじめての密教寺院となりました。毘沙門天は、弘法大師が入唐の際に感得されたものといわれ、平安京の正門にあたる「羅城門」の楼上に安置されていたものが移され、国宝に指定されています。菅原道真もこの毘沙門天に祈願したことから後に文章博士になるなど道が開けたと言われています。

福徳自在「弁財天」…六波羅蜜寺

https://www.rokuhara.or.jp

阪急河原町駅下車。徒歩10分

天暦5年(951)醍醐天皇第二皇子光勝空也上人により開創。空也商人は森羅万象に生命を感じ、ただ南無阿弥陀仏を称え、今日ある事を喜び、歓喜躍踊しつつ念仏を唱え、常に市民の中にあって伝道に励んだので、人々は親しみを込めて「市の聖」と呼び慣わしたそうです。六波羅蜜とは、この世に生かされたまま、仏様の境涯に到るための六つの修行をいいます。波羅蜜とは彼岸(悟りの世界)に到ることとされています。弁財天堂の六波羅弁財天は、崇徳天皇の夢告により造立されたもので、崇徳天皇亡くなった後、寵愛された阿波内侍が屋敷を寺とし祀ったと伝わっています。

延寿福楽「福禄寿神」…赤山禅院

http://www.sekizanzenin.com 

叡山電車 修学院駅下車 徒歩20分

平安時代の仁和4年(888年)に、第三世天台座主 円仁の遺命によって創建、天台宗総本山 延暦寺の塔頭のひとつ。円仁は、838年、遣唐使船で唐に渡り、苦労の末に天台教学を納めました。その行程を守護した赤山大明神に感謝し、赤山禅院を建立することを誓ったとされます。本尊の赤山大明神は、唐の赤山にあった泰山府君を勧請したもので、天にあっては福禄寿神、地にあっては泰山府君とされています。平安京の東北にあり、表鬼門に当たることから、赤山大明神は、皇城の表鬼門の鎮守としてまつられました。以来、皇室から信仰され、現在も方除けのお寺として、広く信仰を集めています。

不老長寿「寿老神」…革堂(行願寺)

https://saikoku33.gr.jp/place/19

京阪電車「神宮丸太町」より徒歩約15分

天台宗のお寺で、行願寺を創建した行円上人は仏門に入る前、猟師をしていて身ごもった雌鹿を射たところ、その腹から子鹿の誕生するのを見て、仏門に入ったと伝えられています。その雌鹿の皮を常に身につけていたことから、皮聖(かわひじり)と呼ばれ、建立した堂も革堂と通称されるようになりました。豊臣秀吉が革堂を寺町荒神口に移した際、南極寿星寿老神(寿老人神堂)と鎮宅霊符神(鎮宅霊符神堂)を祀ったと伝えられています。

諸縁吉祥「布袋尊」…萬福寺

https://www.obakusan.or.jp

JR奈良線「黄檗駅」下車徒歩5分

黄檗山萬福寺は1661年に中国僧「隠元隆琦(いんげんりゅうき)禅師」によって開創。布袋尊は明国か仏師·茫道生を招き、寛文3年(1663年)に造立されたもの。「臨済宗黄檗派」などと称していましたが幕府の政策等により一宗として独立し「黄檗宗」を公称するようになりました。日本でいう「禅宗」は、臨済宗、曹洞宗、黄檗宗の三宗に分類されています。隠元豆(いんげんまめ)·西瓜(すいか)·蓮根(れんこん)·孟宗竹(たけのこ)·木魚なども禅師の請来によるものです。萬福寺の建造物は、中国明朝様式を取り入れた伽藍配置で、創建当初の姿のままを今日に伝える寺院は日本では他に例が無く、代表的禅宗伽藍建築群として、主要建物23棟、回廊、額などが国の重要文化財に指定されています。

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