悲運のヒロイン 源頼朝長女 大姫
木曽義仲嫡子 義高との婚姻
源頼朝と北条政子の長女 大姫は6歳にして、頼朝と対立していた従兄弟の木曽義仲との和睦の証として、義仲の嫡子義高11歳と婚姻することになります。その1年後に義仲の死に伴い、義高は非業の最後を遂げ、大姫は生涯独身を貫いたとのことで、当時権勢を誇っていた二人の源氏の血を引く、若い二人の悲運は現代にまで語り継がれています。
義高を祀る埼玉県入間の清水八幡宮
義高の終焉の地、埼玉入間には、義高を供養するために北条政子が建てた社に由来する清水八幡宮があります。入間川洪水で一度流されたものの石祠は残り、現在の社殿に祀られています。
義仲が頼朝に討たれたことで、大姫は義高を女房姿にして大姫の侍女達に囲まれ屋敷を抜けださせ、大姫が手配した馬に乗って鎌倉を脱出、馬の蹄には綿を巻いて足音を消し、身代わりに同い年で信濃から義高と共に鎌倉に来た海野幸氏に部屋で身代わりをさせ、時間稼ぎをしたとのことです。義高は祖父義賢の地大蔵館、義仲を助けた畠山重能の地菅谷館を目指したものの入間河原で討たれ、この地には義高が追手から身を隠したとされる影隠地蔵もあります。義高を失った大姫は、悲しみのあまり病床に伏せ、母北条政子は義高を討ったために大姫が病になったと怒り、義高を討った藤内光澄の不始末のせいだと頼朝に強く迫り、光澄は晒し首にされたとのことです。
義高が向かった祖父義賢ゆかりの地 埼玉県嵐山町
義高が向かった大蔵館(現在の埼玉県比企郡嵐山町)がある地は、義仲の父の義賢が武蔵国の最大勢力であった桓武平氏の流れを汲む秩父重隆の娘を妻とし、東国に勢力を広げた地になります。義仲誕生の地でもあり、鎌形八幡神社には義仲産湯の清水とされる手水舎があります。鎌形八幡神社は桓武天皇を軍事で支え、後に征夷大将軍となった坂上田村麻呂が東征に際して八幡神社の総本宮宇佐八幡宮を勧請して創建したとされています。清和源氏の源頼義・義家親子も東征に際して尊崇し、源氏の氏神として頼朝も崇めたと伝わります。
大姫と義高が眠る鎌倉常楽寺
左:義高の墓とされる木曽塚 右:大姫の墓と伝わる塚
大姫と義高の墓所とされる地は北鎌倉の常楽寺裏手にあります。常楽寺は北条泰時が義母のために創建した粟船御堂が前身で、泰時の墓所もここにあり、泰時の法名から常楽寺とされたとのことです。建長寺を開山した蘭渓道隆が、建長寺建立まで、ここに住んでいたとのことで、仏殿には本尊の阿弥陀如来像、蘭渓道隆像が安置されています。
日本の禅宗は5代執権北条時頼が蘭渓道隆を招いて建長寺を創建したことから広まり、常楽寺は建長寺の根本であるとして重要視されているとのことです。
大姫の守本尊 鎌倉岩船地蔵、山吹姫が義高供養で創建した班渓寺
左:鎌倉 岩船地蔵堂 右:埼玉 班渓寺 山吹姫供養塔
義高への想いを貫き通して、大姫は20歳の若さで亡くなりました。鎌倉岩船地蔵堂の木造地蔵尊の胎内銘札から源頼朝の息女の守本尊と書かれたものが見つかり、大姫の守本尊、妹の乙姫が埋葬された場所との見方があり、乙姫の埋葬には北条義時、大江広元、三浦義澄、畠山重忠、梶原景時などが参列したとのことです。
また、埼玉嵐山町の班渓寺は木曽義仲正室の山吹姫が義高供養のために創建し、山吹姫の墓とされる供養塔もあります。
若い二人への想いはそれぞれの親において強く、現在にまでその痕跡が残されています。